激動の歴史を見守り続けた江戸城
蔦重をめぐる人物とキーワード⑬
■将軍家の威信を天下に知らしめた巨大な城
江戸城は、江戸時代を通じて日本の政治と文化の中心地として機能し、その後も皇居として日本史に深く関わり続けている。
この城の歴史は1457(長禄元)年に始まる。関東管領・扇谷上杉氏に仕えていた太田道灌(おおたどうかん)が、享徳の乱における古河公方・足利成氏(あしかがしげうじ)との対立に備えるために防衛拠点として築いたのが、江戸城の前身だ。
当時の江戸は武蔵野台地東端に位置し、湿地が広がり、人が定住しにくい環境で、小規模な集落が点在するのみだった。
その後、江戸城は上杉氏や北条氏など複数の勢力の支配下に置かれた。1590(天正18)年、小田原征伐で北条氏を滅ぼした豊臣秀吉が、徳川家康にこの地を与えると、家康はこの地を居城と定め、大規模な改修工事と城下町整備を計画。北条氏時代の城を段階的に拡張し、本丸・二の丸・三の丸などの区画(曲輪)を外側へ広げる梯郭式の縄張りが採用された。
1603(慶長8)年に江戸幕府が開かれると、全国の大名たちによる「天下普請」で堀や石垣などが整備された。この工事は三代将軍・徳川家光(いえみつ)の時代である1636(寛永13)年に主要部分が完成し、日本史上最大級といわれる城が誕生。特に五重の天守は、天守台を含めると高さ50㍍以上と推定され、当時世界最大級の木造建築だった。
しかし、明暦(めいれき)の大火と呼ばれる1657(明暦3)年の火災で、天守をはじめ多くの建物が焼失。その後も修復が行われたが、この頃には幕府の権力が確立し、城の防御機能よりも政治・統治の中心地としての機能が重視されるようになっていた。天守の軍事的必要性が薄れ、かつ幕府の財政難などの理由から、天守台までは再建されたものの、天守そのものの再建は見送られた。
江戸幕府が終焉を迎えた1868(慶応4)年、江戸城は勝海舟と西郷隆盛の会談を経て無血開城された後、新政府に引き渡された。翌年には明治天皇が入城し、一時「東京城」と改称する案が浮上したが、正式には「皇居」と改められ、日本の象徴としての新たな役割を担うようになった。
現在では、「特別史跡江戸城跡」(昭和35年指定)に指定された皇居外苑や東御苑で、天守台や石垣、堀など当時の面影を見ることができる。かつての政治の中心地は、今も多くの人々に親しまれる歴史的遺産として存在している。
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